増上寺の石灯籠が、多くの寺にある謎

地蔵、狛犬、塚
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埼玉県内のお寺をめぐっていると、増上寺の名前が書かれた大きな石灯篭を目にします(宗派関係なく、です)そして、埼玉県西部に多い事に気付きました

三つ葉葵の紋

増上寺、文昭院殿、正徳2年の文字

文昭院:江戸幕府6代将軍家宣(いえのぶ:1662年〜1712年)公の院号。文昭院霊廟(ぶんしょういんれいびょう)は芝増上寺北側に造営され豪華な建物や彫刻で飾られていたが東京大空襲で焼失

芝の増上寺といえば、浄土宗の7大本山の一つ。なぜ、浄土宗以外の寺にも置かれているのか・・?

徳川家=増上寺(浄土宗)、と思っていましたが、上野寛永寺(天台宗)とも大きな繋がりがありました。そういえば、学校でも習ったような気がします・・

【徳川家、増上寺と寛永寺の繋がり】

増上寺

豊臣秀吉の命令により江戸へ入府した徳川家康。増上寺12世「源誉存応上人」(普光観智国師)と師檀の関係を結び、徳川家の菩提寺となる。家康公が臨終の際には駿府に赴き御十念を授与(南無阿弥陀在仏と10回唱える事)、遺言により増上寺にて導師として葬儀を執り行いました。

6代の将軍墓所:2代秀忠、5代将軍綱吉の兄弟綱重、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂


寛永寺

徳川家康、2代秀忠、3代家光が帰依した天台宗の「天海大僧正」の願いで江戸に天台宗の寺院が開かれたのが寛永寺の始まりと伝わる。(※天海大僧正は焼失した延暦寺の復興再建や日光東照宮の造営に尽力しています)徳川家の菩提寺は増上寺でしたが、家光は『自分の葬儀は寛永寺で行い、その後東照宮へ葬るように』遺言。4代家綱、5代綱吉の霊廟は寛永寺に造られることとなりました。6人の将軍墓所:4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治(いえはる)、11代家斉(いえなり)、13代家定(いえさだ)

6代家宣の廟が増上寺に営まれて以降、幕末に至るまで将軍の廟は増上寺と寛永寺、交互に造られました

【歴代15代将軍の院号、墓所一覧】

氏名院号墓所
初代 家康(いえやす)安国院東昭大権現久能山東照宮 (静岡市)
2代 秀忠(ひでただ)台徳院(だいとくいん)増上寺
3代 家光(いえみつ)大猷院(たいゆういん)輪王寺
4代 家綱(いえつな)厳有院(げんゆういん)寛永寺
5代 綱吉(つなよし)常憲院(じょうけんいん)寛永寺
6代 家宣(いえのぶ)文昭院(ぶんしょういん)増上寺
7代 家継(いえつぐ)有章院(ゆうしょういん)増上寺
8代 吉宗(よしむね)有徳院(ゆうとくいん)寛永寺
9代 家重(いえしげ)惇信院(じゅんしんいん)増上寺
10代 家治(いえはる)浚明院(しゅんめいいん)寛永寺
11代 家斉(いえなり)文恭院(ぶんきょういん)寛永寺
12代 家慶(いえよし)慎徳院(しんとくいん)増上寺
13代 家定(いえさだ)温恭院(おんきょういん)寛永寺
14代 家茂(いえもち)昭徳院(しょうとくいん)増上寺
15代 慶喜(よしのぶ)なし(神道での葬儀の為)谷中霊園

なるほど。増上寺と寛永寺の繋がりはわかりましたが・・「なぜ、現在あちこちの寺に散らばっているのか?」

【石灯籠の経緯】

江戸時代、芝増上寺の徳川墓所に全国の300を超える大名から石灯籠が寄進されましたが、1945年の太平洋戦争時の東京大空襲により墓所の殆どは焼失し多くの石灯籠も破損。増上寺は徳川家の広大な土地(約7.5ヘクタール)を西武鉄道に売却、1964年の東京オリンピック開催にあわせて「東京プリンスホテル」が開業される事となる。工事の際、石灯龍は西武鉄道所有の土地に保管されたが西武球場を建設する際、埼玉県を中心に東日本の14都道府県、220ヵ所のお寺に移築される。全てが移築されたわけでは無い様で1000基ほどが処分されたとも言われる

戦争、土地の開発、、そんな理由があったんですね。実際に石灯籠が置かれているお寺でお聞きしたところ、

「灯籠は主に3つに分割され西武鉄道の敷地でずっと保管されていた。西武球場建設の際に埼玉県西部を中心にお寺に持ち込まれたが、全てが正しく元通りに積まれた訳では無いようです

東京都東久留米市「大圓寺:天台宗」

説明看板がありました

この一対の灯籠は上野の寛永寺に墓所があります、8代将軍「徳川吉宗公」の墓前にあったものです。「有徳院殿」とあるのは吉宗公の戒名です。昭和39年に御寄付していただきました

寛永寺も東京大空襲により甚大な被害を受け、石灯籠の多くは他寺院へ移設されました

同じく、東京都東久留米市「大圓寺:天台宗」の護摩堂前。「高厳院殿、延宝9年」の文字。高厳院(1676年没)は、第4代将軍・徳川家綱の正室だった方です

日高市「常円寺:曹洞宗」

有章院殿、正徳6年

有章院:江戸幕府の第7代将軍、徳川家継(いえつぐ:1709~1716)公の院号。有章院霊廟は8代将軍、徳川吉宗(よしむね)公が増上寺内に建立。栃木県の日光東照宮に匹敵するほどの豪華なものだったそうですが、二天門を残して焼失してしまいました。土葬されていたご遺体は昭和33年(1958)に発掘され徳川将軍墓所に改葬されています

狭山市「広徳寺:天台宗」、スプレーで書かれた数字が見えます「223かな?」保管時の管理番号でしょうか

こちらも「有章院殿:正徳6年」

飯能市「能仁寺:曹洞宗」

山門を通ると左右に10基ずつ、石灯籠が並びます。埼玉県内でここまで揃っているのは最大級かもしれません。

惇信院(9代家重)、文昭院(6代家宣)

徳川家歴代将軍の石灯籠が散らばってしまった背景には、戦争による悲しい歴史があったのですね。

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