北本市:本宿天神社(もとじゅくてんじんしゃ)
社号 天神社
祭神 菅原道真公
訪問した時間は日が傾いた頃。鳥居から夕陽が射してとても綺麗な光景
奥に社務所が見えます
手水舎:読み方は様々。神社本庁では「てみずや」、大國魂神社は「てみずしゃ」他には「ちょうずや」「ちょうずしゃ」と呼ぶところもあるようです
拝殿:近年改修されたようで建具も新しい。銅板平葺き屋根:唐破風向拝に千鳥破風が付きます
狛犬:阿吽の表情。それぞれ片手を上げていますが、、何もない。少し珍しいですね。
「玉に手を載せている玉取り」か「小さな子が足元にいる子取り」がオーソドックスな印象があります。壊れたりした形跡は有りませんでした。歯の彫刻も細やかです。
御由緒看板:寛文2年(1662年)京都の北野天神社の分室を勧請して祀ったのが天神社の起源。
北野天満宮は、菅原道真公(菅公)を御祭神としてお祀りする全国約1万2000社の天満宮・天神社の総本社。行ってみたいなぁ
大東亜戦争後、社殿の老朽化が目立ち中丸小学校の奉安殿を移築して本殿とした。とあります。江戸時代には隣接した多門寺の持ちとして管理されていたそうです。
北本宿は、慶長7年(1602)に鴻巣宿に宿駅が移るまでは中山道の宿場町であった。江戸時代の元宿村(明治22年に北本宿と改称)は、宿場の中心地に当たり、当社はその鎮守として祀られてきた神社である。元宿村の名主は、「機屋(はたや)」の屋号を持つ岡野家で、当主の正家で二五代を数える旧家である。同家は、初め氏神として稲荷社を祀っていたが、そこに寛文二年(1662)ごろ、領地安全と領民の無病息災・五穀豊穣を祈願して、京都の北野天神社の分霊を勧請して祀ったのが、当社の始まりであると伝えられる。したがって、当社は元宿村の鎮守であると同時に岡野家の氏神でもあったため、この岡野家やその分家では邸内に氏神を祀っていない。
江戸時代には、当社の東南に隣接する多門寺の持ちとして、同寺の管理を受けていた。『風土記稿』元宿村の項に「天神社 多門寺持」とあるのはそうした状況を示すものである。この 多門寺は、多聞律師が文永年間(1264-75)に創立したと伝えられる真言宗の寺院で、本尊は毘沙門天である。神仏分離の後は同寺の管理を離れ、明治六年に村社となった。太平洋戦争後、社殿の老朽化が目立ってきたため、中丸小学校の奉安殿を移築して本殿とした。本殿の御扉に菊の紋が入っているのはそのためで、拝殿も昭和43年に再建された。(「埼玉の神社」より)
奥の白い建物が移築したものなのでしょう
奥に末社がありました
算額(北本市指定有形文化財)所蔵。横178㎝×縦88㎝と大きなもので明治24年(1891年)に奉納
算額:和算家が問題と解決法を記して神社仏閣に奉納した額。これは難問が解けたことへの感謝や勉学向上の祈念、また和算における成果発表などのために掲げられた。和算は江戸時代中期以降に関孝和(1643-1708)らによって発展した日本独自の数学を意味し「算学」と呼ばれ、明治時代中頃になってもこれを学ぶ社中(塾)が各地にあった。
社務所
【アクセス】
住所:埼玉県北本市本宿2-7
交通:湘南新宿ライン「北本」駅より500メートル
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