清亮寺(足立区)/水戸光圀公、槍かけの松

東京都の寺
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久榮山清亮寺(きゅうえいざん せいりょうじ):足立区

宗派  日蓮宗

本尊  一塔両尊四士※

開山  元和5年(1619)運寮院日表上人により開山

一塔両尊四士は不勉強で知りませんでした。調べたところ、

一塔両尊四士:一塔(題目宝塔)を挟む形で両尊(釈迦如来・多宝如来)が座られ、その両脇に四士像(安立行菩薩・浄行菩薩・上行菩薩・無辺行菩薩)が並びます

千葉県茂原市:藻原寺様の写真をお借りいたしました

【寺院縁起】

日蓮宗の寺院で、久榮山清亮寺と号します。開山は元和5年(1619)と伝えられ、本尊は一塔両尊四士です。本堂は天保4年(1833)の再建と伝えられ、山門は昭和6年(1931)に再建されました。山門にある「久榮山」の扁額は中村不折の書です(足立区登録有形文化財)。かつて山門のすぐ近くに、水戸黄門が槍を立てかけたということから名付けられた「槍かけの松」がありましたが、残念ながら枯れてしまいました。墓地入口付近にある「解剖人墓」は、明治3年(1870)に小塚原の刑場で処刑された後、ここで腑分け(解剖)された11人の罪人の戒名・執刀日・俗名・年齢を刻み供養しています。明治の外科医学がここから始まったともいえる貴重な資料です(足立区登録有形文化財、昭和42年<1967>に旧墓石の前に新たな碑を建立)。また、明治5年(1872)に千住中組(現・千住仲町)で生まれ、東京帝国大学を卒業、明治39年(1906)に京都帝国大学の教授となり、我が国で経済史学を樹立した経済学者内田銀蔵博士の墓もあります。

山門:背後に東武伊勢崎線の線路

扁額は中村不折(なかむらふせつ)の書。昭和59年11月文化財(書跡)登録

中村不折:(1866-1943年)東京で生まれ青年期を長野県で過ごす。明治・大正・昭和期に活躍した日本の洋画家・書家。正五位。太平洋美術学校校長。夏目漱石の代表作「吾輩ハ猫デアル」の挿絵を描かれています。

懸魚、大瓶束の彫刻も華やかです

槍かけの松、説明碑

光圀公の人柄が伝わるエピソードが記述されていました。是非、一読下さい

清亮寺の門前を通っている幅六メートルの道路は、千住を起点として水戸に至る江戸時代の水戸街道 (水戸海道)です。江戸時代初期の元和五年(1619)に開山した清亮寺は、今の千住四丁目で日光街道 (日光道中)から分岐した水戸街道に面する最初の寺院で、門前には街道の向う側にまで枝が達する大きな松の木がありました。門前の道はかつて水戸街道から分岐した道路、境内の大きな松の枝が街道に張り出していました。

水戸街道は参勤交代の大名行列で賑わいましたが、櫓持ちはいかなる理由でも槍を横に倒すことは許されません。しかし、街道一杯に張り出した松のため、一度は槍を倒さなければ通れません。
 そこで、街道に張り出した松を切ろうとしたとき、 見事な技振りをご覧になった、後の水戸黄門、水戸藩主の徳川光圀公は『名松を切るのは惜しい。ではここで、この松に槍を立て掛けて休み、出立の時に、槍持ちが松の向こう側に行ってから槍を取り直せば、槍を倒したことにはならない』と、粋な計らいをしました。
 以来、この松は「槍掛けの松」と称えられ、ここを通る大名行列は、門前で松に槍を立て掛けて休むようになりました。

写真は関東大震災(大正12年:1923年)以前に撮影されたものですが、昭和20年(1945)頃に枯れてしまいました。

山門から境内

日朝堂

本堂:天保4年(1833年)築。総ケヤキ造り

【アクセス】

住所:東京都足立区日ノ出町42-1

交通:「北千住」駅より徒歩約15分

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