桶川市:桶川稲荷神社
祭神 宇迦之御魂命
境内社 八雲神社、阿夫利神社、琴平神社、雷電神社
創建 嘉禄年間(1225~1227年)
二つの鳥居の奥に社殿が見えます。右側に駐車場がありました
明治初年の神仏分離を経て明治6年村社となる
神仏分離:明治政府は神道の国教化政策を行う為、明治元年から仏教的な要素を排除しようとした。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく):その神仏分離令の布告・通達に伴い「仏堂・仏像・仏具・経巻」に対して行われた破壊行為。毀「壊す、あるいは悪口」釈「釈迦の事、または釈迦の教え」
日本一の大盤石「三ノ宮卯之助」の旗。力石は全国各地にあり、力比べや力自慢に使われました。特に大きい力石が大盤石、と呼ばれました
三ノ宮卯之助(さんのみやうのすけ):江戸時代の武蔵国岩槻領三野宮村出身。生まれの干支は「卯年」である事から卯之助と名乗ったのでしょう。名前の由来「三野宮村の卯之助」という意味であり「三ノ宮」は名字ではない。生まれつき虚弱体質で小柄で非力な為、周囲に馬鹿にされていた卯之助は一念発起し猛稽古に励み、次第に江戸を代表する力持ちとなる。天保4年(1833)には徳川家斉公の御前にて力持ち芸を披露しています。当時の「御上覧力持番付表」によれば「大関」(江戸時代は大関が最高位)。興行先は広く、関東周辺で活躍したのち甲信越、関西方面にまで及ぶ。ある時、江戸で大坂方の力持ちを破り日本一の力持ちの栄誉を得たが、興行主の宴席に招かれた帰りに急死。死因は急病説、相手方による毒殺説もある
重さは610㎏!軽自動車1台分くらいでしょうか
この石を持ち上げた三ノ宮卯之助は文化4年(1807年)武州岩槻領三野宮村の生まれ。成長し江戸一の力持ち、と評判になり各地のイベントに招かれたようです
当時の興行チラシから、「仰向けに寝た状態で足の裏に乗せた」方法で石を支えたと推測されています
紅花商人寄進の石灯篭
寄進した方々の名前が今の綺麗に残っています
桶川はかつて紅花の生産地と栄え、この石灯篭は桶川宿と周辺の紅花商人が桶川宿浜井場にあった不動堂へ寄進したもの。神仏分離施策の中でこの稲荷神社へ移築。
紗綾形の文様が彫られた石灯篭
境内社
神楽殿
【アクセス】
住所:埼玉県桶川市寿2丁目14−23
交通:JR「桶川」駅東口から徒歩約10分
周辺地図